みんな仲良しの学級じゃなくていい!?目指すべき学級の姿とは。

学校教育

「全員が誰とでも仲良し。けんかゼロ。そういうクラスになれなくてもいい。」
私は新年度のスタートの日、子どもたちにこのような話をします。

当然のことながら、「みんな仲が悪くてよい」ということが言いたいわけではありません。できることなら、全員仲良しの方がよいに決まっています。
「全員が仲良くなんて無理だ」と諦めたのではありません。

「全員が仲良しの学級」の他にも考え方はあるのではないか、と考えているのです。

これは、私個人の勝手な考えではありません。
私がこのように語る背景には、拠り所とする考え方があります。

今回は、「全員仲良く」は難しいということの理由と、教員として大切にしたい考え方について、いくつかの書籍をもとに整理したいと思います。

「全員仲良く」が難しい理由

学校、特に学級という集団は、「全員仲良しの友人のコミュニティ」とは一線を画す部分があります。

それは、学級に以下のような側面があるからです。

学校制度の仕組み

現在の学校制度は、これまで何の縁もなかった若い人たちに一日中べたべたと共同生活することを強いる。そこでは、心理的な距離が強制的に縮めさせられ、さまざまな「かかわりあい」が強制的に運命づけられる。

内藤朝雄,「いじめの構造−なぜ人が怪物になるのか–」,講談社,2001

学級は気が合う者のみで構成されるわけでもなく、価値観が似ている者のみで構成されるわけでもありません。

自分自身が所属している友人のコミュニティを想像してください。自分の気が合う人や共通の趣味がある人など、一般的には自分と近しい特性をもつ者が集まりやすい傾向にあります。しかし、学級はそうではありません。

学級の大きな特徴は、個人の価値観に関係なく集団が構成されるという点です。

“学級”の特徴

また、学級が抱える可能性のある問題について、柳治男(2005)は以下のように指摘しています。

①学習意欲のない子どもも受け入れなければならないという使命を学級集団は背負っている。
②学習の順序を、子どもが自分で決定することができない。
③年齢が無理に統一されることにより、子どもの中で比較的年長者が支配するという自然の秩序が存在しない、いびつな集団が形成される。
④ある程度均質な集団の中で、児童・生徒は数字でメリハリのついた成績をめぐる競争状態に常に置かれる。
⑤仲良しの友達ができれば幸いだが、どうしても仲良しになれない同級生と、一年間も、あるいはそれ以上の長期間にわたって付き合わねばならない。

柳治男,「〈学級〉の歴史学–自明視された空間を疑う–」,講談社,2005

②については、授業中の学習内容や解き進め方という点においては、過去の記事で触れた自由進度学習(「先生の学校」より)という手法が浸透しつつあるため、教科等によって授業の在り方が変容していく可能性もあります。(過去の記事はこちら

子どもたちが学級という集団に所属するという歴史は浅くありません。当然のことながら、学級という集団に所属することで、さまざまな教育的効果が期待できます。先に引用した「⑤仲良しになれない同級生とも付き合わねばならない」についても、自分とは全く異なる価値観をもつ人間に出会うことができる、という点において効果的だと考えられます。

実体験になりますが、子どもの頃、学級での1年間を終えて「新しいクラスになったときは全く関わりがなかったが、まさかこの人と1年間でこんなに仲良くなるとは思わなかった。」という経験をしたことがあります。
「どのような人と一緒のクラスになるか分からない」という学級の特徴があったからこそできた、よい経験だったと思います。

一方で、その当時、人によってはクラスメイトとの関わりを苦痛に思いながら生活を送っていた友人がいたかもしれません。私のことを苦手に感じ、“過ごしづらさ”を感じていた人もいたかもしれません。

これらのことから、良くも悪くも不安定な要素も含んでいる、という学級の特質が理解できるかと思います。

大切にしたい考え方

ここまで学級の特質を述べてきましたが、それら踏まえた上で大切にしたい考え方があります。

以下は、イメージ経験で語られることが多い学級経営について理論的に書き留められた、一つの著書からの引用です。

学級の人間関係が良好になってほしい、ということは重要な教師の願いですが、学級で必要な人間関係とは、全員と友達や仲間になることではありません。まして、強制的な所属感であってはいけません。
そうではなく、課題が与えられたとしたら「好き–嫌い」を超えて、共に協働し、課題解決をする関係です。

白松賢,「学級経営の教科書」,東洋館,2017

児童生徒と信頼関係をつないでいる先生の学級に特徴的なものは、自分たちで学級の文化を創造する自由度があり、同時に集団への同調が強要されない自由度(一人でいることも許容される関係性)があることでした。

白松賢,「学級経営の教科書」,東洋館,2017

「仲の悪い人」とでもいっしょにやらなければならないことも含みながら、「仲良くなること」ではなく、「仲良くなろうとしないこと」を通じて、「やり過ごす」や「課題に応じて協働する」という限定的な関わりにすることも時には必要です。

白松賢,「学級経営の教科書」,東洋館,2017

大切にしたい考え方とは、「『好き-嫌い』を超えて、共に協働し、課題解決をする関係づくり」です。

冒頭で述べた「全員が誰とでも仲良し、けんかゼロのクラスになれなくてもいい。」という言葉。

これは、「好き-嫌い超えて共に協働する関係」を意識づけるための導入として、子どもたちに「学級という集団の難しさ」を伝えるために用いた言葉です。

実際に子どもたちに話をする時には、以下のような内容の言葉を続けます。
以下の斜体は、私の発言の概要です。

この中で、外で遊ぶのが好きな人?(挙手)
室内でゆったり過ごすのが好きな人?(残りの人たちが挙手)
ドッジボールが好きな人?(挙手)
そんなに好きではないかな~という人?(残りの人たちが挙手)
赤系の色が好きな人?
青系の色が好きな人?
緑系の色が好きな人?
その他の色が好きな人?(それぞれまばらに挙手)

今、いくつか簡単な質問をしましたが、全員一致で手が挙がったものはひとつもありませんでした。つまり、好き嫌いや考えていることは人それぞれ違うし、違っているのが自然だということです。

好きな色のような簡単なことでさえ、人それぞれ意見が違っているのです。ですから、これから先、意見が合わずにけんかしてしまうこともあると思います。「この人、ちょっと苦手だな」「自分とは合わないかもな」と思うこともあると思います。そういうことがあっても、おかしくはないと思います。人と違う、というのは「自分らしさ」があるということです。

ただし、それは「いつでも自分の好きなようにしていい」という意味ではありません。生活の中には、全員で一緒に行動しなければならない場面や、協力して活動しなければならない場面が必ずあります。そんな時、好き嫌いに関係なく、「仲良くはないけど同じ班になったから一緒に活動しよう」「本当はA案がよかったけど、話し合ってB案に決まったから、B案で頑張るぞ」と考えることができる集団であってほしいと願っています。

この著書に出会って以降、「好き-嫌いを超えて共に協働する関係」という考え方は、私の教育観の軸となっています。
教員として揺るぎない信念をもち、「好き-嫌いを超えて協働すること」について事あるごとに子どもたちに語りかけます。
すぐに変わることは、大人でも難しいものですから、目に見える成長をすぐに感じ取ることは難しいかもしれませんが、1年間の終わり、3月の子どもたちの姿をイメージしながら、粘り強く関わり続けていきたいと思います。

最後に

今回は、いくつかの著書を拠り所として、学級経営の在り方について整理しました。

学級の難しさばかりに焦点を当てて述べてきましたが、難しい部分があるからこそ、充実感も生まれるのだと思います。

集団特有の充実感生きづらさの中で、きっと『生きる力』は育っていきます。
教員として、子どもたちのすぐそばで共に成長していけることを嬉しく思います。

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